何から書いてよいかわからず、思いつくまま書かせてもらいます。
私はこれまで、戦前戦後の大工として金具を使用しなくても地震や風雨には耐えることが出来る伝統的在来軸組工法を用いる大工の育成に力を入れてきました。
私の最初の大工修業は京都の峰山でした。終戦後第2の修業先として東京の深川や木場両国あたりで大工技能を修業しました。東京で驚いたことは、木造住宅や旅館の6間×10間程ある大きな建物でも、隅柱4本しか通柱を使わないことです。東京の職人さんは、柄穴掘り、削りと専門に分かれており、私の様に墨付けから切り刻み迄やる職人は少なかったので、棟梁と呼ばれて職人達に持てはやされ、よく屋台店に連れて行かれました。
その当時、東京の大工さんは、地組をして母屋束などの寸法取りをされていました。建方は、鳶職人がやるのですが、私も鳶職人と一緒になって母屋の丸物の上を歩いたものです。造作は、今の職人では出来ないくらいとても素晴らしい技を持った大工ばかりでした。 敷居を入れるのに、「虫一匹入らぬようにせねば。」と、よく指導を受けたものです。出書院や格天井、網代組(あじろぐみ)、鉋くずでの網代天井や2重台輸入など、本当に造作仕事は素晴らしいものでした。
終戦から4年たち、年明(ねんあけ:親方が、一人前として認めた事を示す)の昭和24年7月15日に、東京から現在の兵庫県朝来市和田山町へ帰って来ました。
米1升が210円で、一日の日当は、200円でした。一日働いても、家族5人は食べていけなかった時代でした。木造2階建の新制中学校を建築するのに手間請けで工事にかかりました。幸い終戦前後、丹後中央病院を手掛けた事もあって、合掌組も出来たので、野丁場でも棟梁として使ってもらいました。日当は、忘れもしなない280円でした。学校の工事が終わると、古い藁屋根のお寺の工事に当時の職人達と一緒にやる事になりました。複雑な反り屋根だったこともあって、途中より職人頭となり、昭和26年の終わり頃には一日の日当は300円となったと思います。一寸所帯が楽になりかけた頃、自分でも建築請負業をするようになり、今度は職人さんに来てもらうようになりました。昭和27年〜28年、木造の住宅工事の請負が徐々に増えてきましたが、木造2階建の70坪から、80坪位を手間請負もしました。
昭和29年〜30年にかけて、鉄筋コンクリート工事がやりたくなり、大阪の金岡団地の5階建のアパート工事に行きました。壁構造で、柱のない5階建て、当時の金岡団地は錢高組や他の大手の建設会社が入っていたと思います。内部の間仕切り壁は、木摺り打で、今のボード張り、クロス張りとは違って、全て漆喰塗り仕上げでした。当時日当は、小廻りで、一部屋の造作を請負って、一日当たり1,000円になりました。
鉄筋コンクリート造りの建物も型枠組から造作まで経験して、和田山に帰りましたが、そういう仕事はなく、私は手斧が使えたので、山奥の道の不便な所で母屋続きの座敷を請負いました。材木は、柱も丸太から木取りしました。屋根の母屋は軒の出だけ角に仕上げて、中は丸太のままで使いました。座敷には出書院もあり、床の間に違い棚もあり、東京で修業をした技術を使い造作が出来ました。天井は2重廻縁など、当時の田舎の客間としては良い仕事がしてあると評判になり、人が見に来てくれました。手間請負は坪当たり4人役で1,400円くらいでした。住宅1軒当たり大工工賃は、10万前後となりました。今現在は、斧や手斧(ちょうな)を使いこなす職人は、数少なくなったと思います。その当時の木造住宅は、製材品が少なく、木挽(こびき)職人が行う斧斫りしたものを、大工が手斧(ちょうな)斫りで手間をかけて木造っていました。建方は、地区の人達でロープを使って建てました。現在は、クレーン車で手元まで材料を上げてくれますが、当時は皆職人の肩と腕だけで建て上げました。それでも、3日もあれば野地仕舞まで終わって、下葺きが出来ました。現在と時間的には一寸も変わっていません。そう思うと、当時の大工職人はよく働き、今の大工の3倍は出来る職人であったと思います。
その工事が終わった昭和32年春、施主に「私の息子を大工の弟子に入れてくれ。」と頼まれ、第1号の弟子を入れました。それから毎年1人か2人は大工見習いに来て弟子が5人になり、仕事を増やさないといけなくなった頃、町の入札に参加するようになりました。当時、この地方の住宅が一軒80万円くらいの頃、和田山中学校冬期宿舎を1,260万円で落札し、一挙に15倍の工事を請負うことになりました。(昭和44年8月入札、昭和45年1月完成)その後、公共工事を請負って工事量も増えました。大工の数も増えましたので、幾度か当時の労働省へ行っては大工訓練について指導を受けに行きました。労働省の和田山局長にお願いして、『和田山高等職業訓練校』を設立し、更に大工育成に力を入れていきました。それらの功績により、昭和63年11月3日、黄綬褒章を授賞しました。そこには、「多年建築業に従事し、常に技術の向上に努めるとともに後進の指導に尽力した。まことに業務精励し衆民の模範である。よって、褒章条例により黄綬褒章を賜って、その善行を表彰せられた。」と表していただきました。
私は、伝統的在来軸組工法で住宅を建てています。今の住宅は、木材1本とっても「乾燥」「乾燥」と言われるが、木材そのものの善し悪しを解っていません。私の弟子時分は、桧柱であれば100年とか150年かかって育った桧を使用していたので、そう乾燥にこだわらなくても良かったのです。本来、日本の住宅は100年200年も風雨に耐え続ける建物で、先人から受け継いだ伝統的在来軸組工法で造られていたのです。
平成7年1月17日、阪神淡路大震災が起きました。この震災で、またも木造住宅の悪い所ばかり報道されました。解体工事をされた職人さんと話した時、釘止め、金具止めの木造住宅の場合、一度曲がった釘、金具は元には戻らないので、昨日上棟したような住宅でも解体を余儀なくされ、伝統的在来軸組工法の場合は、少々倒れかけている住宅でも起こして「ほぞ」が戻れば、住宅として十分使用出来たと聞きました。そのようなことから、釘や金具は曲がると使い物にならぬと弟子に伝えています。
現在は、国家プロジェクトによる『大工育成塾』受入工務店となり、私は軸組指導棟梁として後継者の育成に頑張っています。
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